福田平八郎|展 at 京都国立近代美術館

wood-village2007-06-06


アンリ・カルティエ=ブレッソンという名前を聞いた事があるだろうか。
決定的瞬間という概念を芸術作品にまで昇華した写真家だ。

彼の有名な作品に「サン=ラザール駅裏」という写真がある。水溜まりを避けて跳ぶ男の一瞬を撮ったものだが、あまりに緻密に構成された構図に驚きを越えて呆気にとられる。
写っている全ての夾雑物が−壁に貼られているポスターさえも、この瞬間のために、配置されたのかと思うほどだ。

そんな決定的瞬間が、福田平八郎の「初雪」を目にした時に現れた。

「初雪」はブレッソンの写真にあるような夾雑物は一切ない。あるのは点々と置かれた庭石とうっすらと降り積もる雪だけだ。

しかし、この一枚だけで、その時の庭の様子が思い浮かび、情景が無限に拡がる。たった数個の庭石しか描かれていないのに。

「雨」と題した作品が「初雪」の向かいに掛けられている。画面には屋根瓦しか描かれていない。
しかしよく見ると、瓦に落ちた雨粒の跡がぽつりぽつりと残っている。
まるで家の2階の窓から覗くように、じっくりと見入ってしまう。実際、会場ではこの絵の前から動かない人が何人もいた。

福田はスケッチブックに写生した絵を、自作のスケールケースを用いて、切り取り、改めて描き込んでいたようだ。つまりはトリミングだ。

自分の求める絵が出来るまで、何度もトリミングをして、何度も描き続けたという。

こうした思い切った省略やシンプルな描写にこだわった福田の絵は、意図したのかしなかったのか、見た目がとにかく可愛いらしい。
手水鉢に盛られた朝顔のこんもりとした様子や、川面をはしこく泳ぐ鮎の姿。デパートで買ってきたフカヒレの横に甘鯛と雲丹を並べる茶目っ気。
温和で優しげな人柄が見えてくる。

決定的瞬間は点であるがゆえに、あらゆる方向に拡がり続ける。

省略と純化の軌跡。

それは福田が、捕らえそうで捕らえきれない世界を忠実に描きたかっためにとり続けた、唯一の方法だったのではないだろうか。



惜しむらくは、「漣」が調達出来なかったのか、会期を逃したのか、レプリカでしか見れなかったことだ。
大阪市立近代美術館準備室所蔵の作品なので、市の財政破綻による売却ラッシュが起きなければ、関西でも見る機会はあるだろうけど、今回の展覧会でこそ、並べて見たかった。実に残念。