ひとり日和

ひとり日和

ひとり日和

ひとり暮しなるものをした事がない。それどころかひとり部屋も持った事がない。
家族に気を使わずに、テレビを見たり、ゲームをしたりして過ごせる状況には憧れるが、いざひとり暮しをしてみると、おそらく食事はコンビニ弁当か外食、布団は敷きっぱなし、ゴミは回収車が来るまでには出せず溜まる一方、仕事があるおかげで、昼夜逆転はしないかもしれないが、寝不足で能率の良くない仕事をすることになるだろう。

ほんと、自制心のない人間はどうしようもない。

ところが、一緒に暮らす人間がいれば、朝方までゲームをすると、罪悪感に堪えられなくなるし、あまつさえ、いいかっこうをしようとして、ご飯さえ作ったりするのだ。

まあ、当たり前っちゃ当たり前な話なんだけど。

ひとりで生きていくには、その当たり前を自覚してるかどうかが大切な気がする。といっても、ひとり暮ししたことがない人間には本当のところ、よくわかってないのだけども。

さて、第136回芥川賞授賞作。

年中、五月病みたいな女の子が、親戚のおばあちゃんの家に同居するという話。

単語一つ一つに気を使う作家で、文章は下手じゃない。ただ語る事にさほど興味がないのか、小説世界に引き込もうとはしないので、退屈感は否めない。
小説よりも詩を書いた方が、この人の性分に合っているのではないかと思うが、それは余計なお世話だろう。

以下ネタバレ。



主人公の日記めいた文章は、彼女に関わる人々の事以外、何も書かれていない。

自分にとって大切なものは、人間関係だけであると思っているのに、執着も努力もしない。
している事は大切な人のがらくたを掠め取り、靴箱に隠す事だけだ。

それさえあれば満足であった主人公が、いくつかの出来事を経て、がらくたへの興味を失っていく。

終盤、同居しているおばあちゃんにその行為が見つかる場面は、孤独からの脱出ではなく、誰もが孤独であるという再確認であったかもしれない。

最終章、自立した主人公は、会社で出会った家族持ちの男と競馬場へと遊びに行く約束をする。

靴箱に隠したがらくたが何に変化したのか、それは主人公でさえわからないのではないか。

自立したところで、社会に許可された訳でもない。おばあちゃんの言葉を借りれば、たった一つの世界にようやく目が留まっただけに過ぎない。

次作でこれからの言葉を紡いでいけたのなら、芥川賞をとった甲斐があったのではないかと思う。余計なお世話だけど。